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ブラバ、バラワ、ブラヴァ、バラウェ(Brava, Barawa, , )はソマリア南部にある港町。主な住民は、ソマリ語のを話すソマリ族と〔Muslim Brotherhoods in Nineteenth-Century Africa By B. G. Martin pg 160〕、スワヒリ語のを話す。 ==歴史== 15世紀前半、明の探検家鄭和が寄港したという卜剌哇(不剌哇)がブラバに比定されており〔國立成功大學 鄭和研究與活動簡訊 〕、鄭和はそこからラクダやダチョウを持ち帰っている〔張之傑 鄭和下西洋與麒麟貢 〕。 1503年、ポルトガルのの一部がラヴァスコ(Rui Lourenço Ravasco)に率いられ、モンバサに攻められるマリンディを救援する際、モンバサを応援するため駆け付けたブラバからの船隊を捕えている。ラヴァスコは乗員の解放と引き換えに、ソマリアから身代金を受け取っている。同時期に同じくポルトガルのトリスタン・ダ・クーニャもブラバを訪れている。 1840年、バルデラの海兵が航海途中でブラバを襲ったので、町の住民はのスルターンに援軍を求め、ゴブローン王国はバルデラに攻め入って町を焼き討ちしている。1889年になると、ブラバの南方にある有力なイスラーム国家ザンジバルの力が衰え、ザンジバルは他のバナディール周辺の港と合わせて、ブラバの支配権をイタリアに譲った。しかしブラバはゴブローン王国の影響が強かったので、イタリアとザンジバルの合意は無効だとして抵抗している。しかし結局はイタリア領ソマリランドの一部となった。 ブラバは1947年に設立されたディジル・ミリフレ党(Hizbiya Digil-Mirifle, HDM)の拠点であり、後にアル・ダストゥル・ムスタキ・アル・ソマリ党(Hizb al-Dastuur Mustaqil al-Somali, Somali Independent Constitutional Party, HDMS)に発展した〔Port Cities of the Horn 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブラバ (ソマリア)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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